6~15世紀まで約1000年にわたる 「中世・結婚・カテゴリー」

中世を通じて「女というもの」についての言説を握り、処女、寡婦、結婚している女性という女性の三つのカテゴリーを中心に、その模範像をつくったのはおもに聖職者と学者たちであった。

カトリック教会は、生涯添い遂げる「キリスト教的結婚モデル」を広めていった。

まだ統一的法体系はなかったが、ローマ法以来規定されてきた女性の「劣等性」は後見制度として現れ、未婚の場合には父が、既婚の場合には夫が後見の権利をもち、夫の支配に妻は無条件で従った。

結婚しない女性、または寡婦の場合は修道女になることが多かった。

10世紀ごろの女性の平均寿命は36歳と推定されている。

封建貴族階層の女性は家系の上昇・維持の役割を担い、民衆階層の女性は繊維・食品製造業などの部門で、労働力として中世都市の経済発達に決定的役割を果たしたが、大部分は農業労働に従事していた。

男性たちが規範を統制するなか、15世紀に、最初のフェミニストにして子供を抱える寡婦、クリスチーヌ・ド・ピザンが例外的に作家としてペンで生活を支え、『女の都』などの書物を書き、女性擁護論を唱えた。

絶対王政の確立から崩壊に向かう16~18世紀は、プロテスタントの宗教改革とカトリックの対抗宗教改革による宗教紛争の時代でもあった。

カトリックの改革者たちは伝統を伝える母親の役割に注目し、宗教上の道徳、読み書きを中心とした女子教育を民衆階層にまで広める。

一方では、貴族層を中心に中世からの男女の優劣をめぐる「女性論争」が延々と続いていた。

これらの時代には医学、科学、哲学の言説が「女の本性」を論じ、妻や母としての女性の役割を定義するようになった。

こうした本性・役割論に対して、17世紀に、最初の男性フェミニスト、プーラン・ド・ラ・バールは男女平等を唱え『両性の平等について』を書いた。

結婚が女性の人生の中心であったが、貴族・中産階層では持参金制度が重荷になり、民衆階層より結婚率は低かった。

貴族階層の女性たちはサロンを主催し、政治・文化面で実力を発揮し、ラファイエット夫人が『クレーブの奥方』を、セビニェ夫人が書簡文学を書いた。

服飾産業などの新興産業の拡大とともに、民衆女性の職域は広がったが、女性専用の仕事とみなされると、低賃金に固定された。

18世紀になると、女性新聞の発行、種々の暴動に加わる女性たちなど、社会的場面に女性たちの活動的姿がみられるようになる。
update:2010年02月24日